長崎ヘレンの会に参加して

はじめに

 「長崎」と聞いて皆さんは何を思い浮かべますか?出島、カステラ、稲佐山、ハウステンボス、長崎ちゃんぽん、そして原爆、etc・・・。歴史の好きな方は坂本龍馬やT.B.グラバーや岩崎弥太郎を思い浮かべるのでしょうか。私にとっての長崎は、東京都練馬区と並び、難聴児(者)にとって日本でも指折りの住みやすい土地、憧れの場所です。そして私が親子の会を作りたいと思うに至った原点でもあります。

 難聴という見えにくい少しやっかいなハンディを持つ子どもたちは、「聞えているだろう」という誤解を受けやすく、周囲との認識のズレに悩んでいることが多々あります。必要なのは「困っていること」を周りに伝えることであり、難聴の正しい理解を社会に広めることだと思います。こうした取り組みは本人と親だけでは困難な場合が多く、難聴児に深い理解と愛情を併せ持つ地域の医師の存在が欠かせません。長崎(九州地方)に住む難聴児と保護者にとって幸運だったのは、神田幸彦先生がおられたことだと思います。

 私が神田先生を初めて知ったのは「声援隊」の勉強会でした。ご自身も人工内耳装用者であられる先生の話には説得力があり、息子の療育に悩んでいた私には大きな希望と救いになりました。あれから数年が経ち、息子も小学生になりました。東京から三島に移り住み、仲間と出会い、「みしま難聴児を持つ親子の会」を立ち上げてもうすぐ3年。今年は三島に声援隊の「きっともっとずっと聴こう!」を招き、全国から集まった難聴児親子との交流とワークショップ、市民参加型の講演会を開催することに成功しました。活動を通して、憧れだった神田先生ともご縁ができ、この度神田先生と長崎補聴器・人工内耳装用児(者)の会主催の第16回ヘレンの会に参加して参りました。また新たな考え方に出会い、非常に有意義な時間を過ごせましたので皆さんにご報告したいと思います。

 

ヘレンの会とは

 ヘレンの会は長崎大学で人工内耳手術を受けられたり、長崎ベルヒアリングセンター(神田E・N・T医院内)で(リ)ハビリテーションを受けている患者さんの会(長崎ベルの会)の小児部にあたる会です。以下神田E・N・T医院の記事から抜粋させていただきます。

 

『多数の普通学校訪問をしていて感じるのは、難聴のお子さんたちが、多くの健聴児の中で、難聴児ひとりで頑張っておられるということです。私は立派だと思います。そのような子どもたちに「ひとりじゃないよ、同じような仲間はいっぱいいるよ」というメッセージを大人は示したい、そのように考えています。それを皆さんが同じ場所で感じていただきたいのです。そのような「多くの健聴児の中で、難聴児ひとりで頑張っておられる」立場のお子さんは補聴器装用児でもたくさんおられます。また、補聴器にしても人工内耳にしてもできれば同時に有益な情報を交換し合う、地域で近いお子さんがいたことに気づく、あるいは遠方でも年の近いお子さんたちと知り合えるなどを目的としている会です』

 

 このように、神田先生の思いが詰まった会なのです。実はヘレンの会に参加するのは今回で2回目です。前回は2015年4月に行われた第14回ヘレンの会でした。2015年と言えば、息子が地元の幼稚園の年少組に入園した年です。まだ言葉に不安を抱えながらも、チャレンジしたいという気持ちで、思い切って「外の世界」に飛び出した直後でした。ヘレンの会の保護者の方同士が楽しく語り合い、子どもたちは「Dear Friends」というチームを結成し、舞台で生き生きとダンスパフォーマンスをしていました。音に合わせて踊ることの困難さを知っていた私には衝撃でした。一糸乱れぬ完璧なパフォーマンスに勇気と感動をもらい、「仲間」の大切さを改めて知り、いつか自分もこんな仲間と巡り会い、子どもたちを支える会を作りたいと強く思ったのでした。あれから3年以上が経ちましたが、今でも私の考える活動の原点は「長崎」なのです。

 

すこし不便なだけ

 全国高校総文祭弁論大会4位に入賞した高校生の弁論を聴きました。感動しました。笑顔で凛として話す言葉の奥には、言葉では言い尽くせない困難と苦労を乗り越えてきた彼女の歴史がありました。息子の将来と置き換え、これから彼が直面するであろう多くの問題を乗り越えていく強さを持って欲しいという親心と、聞えにくいことによって、人より少しばかり苦労をするであろう息子の立場を想像して鼻の奥がツーンと熱くなりました。一番印象に残った言葉です。

 

『私は不幸ではありません。少し不便なだけなのです。』

 

 そう、不幸だとか可哀想だと思っているのは周りだけで、本人たちはそう思われるのは迷惑かもしれません。聞えにくいことも自分の個性で、たまに感じる不便さも努力と工夫で乗り越えていける強さを身につけて、しなやかに人生を泳ぎ始めた子どもに、実は親が一番戸惑っていたりして。手を引いて歩いていた時代から、背中を押して送り出す時代へと、子どもの成長と共に親も成長していかないといけないのだな、と感じながら、素晴らしいスピーチの余韻に浸ることができました。

 この方は、中学時代にマーチング部(楽器はユーファニアム)に所属し、全国大会に2度出場経験があり、高校へは音楽特待生として入学したそうです。人工内耳装用者が音楽特待生って、本当にすごいことだと思います。「はじめから諦めないで、とにかくやってみることが大事」と息子にはいつも言っている私ですが、それを実践されている方を知り、またまた勇気をもらいました。

 

座談会で

 神田先生が座長をされ、大分県佐伯市の保護者と、佐世保市の難聴学級の先生のお話を聞きました。佐伯市の取り組みは前々から非常に興味があり、お話を聞くのを楽しみにしていました。佐伯市では教育委員会の中に「メディカルサポート」部門を作り、普通学級に在籍しているサポートを必要としている子どもたち(アレルギーや難聴以外の障害も含む)の窓口になっているそうです。このお子さんには、3年間同じ支援員が付き、難聴の子どもと周囲とを繋げる黒子の役割をしていたそうです。黒子なので、いつも隣にいるのではなく、授業中は後方からロジャーで聞き逃した担任の指示を伝えたり、休み時間の子どもたちの会話をサポートしたりしてくれていたそうです。特に休み時間のサポートは子どもたちにとって有り難いと思いました。このお子さんは女の子でしたが、おしゃべりの中で言葉の行き違いなどを、そっと教えてくれたりしたそうです。よく子どもたちからは、授業中の支援より、休み時間の方が必要だと聞きます。息子を見ていても感じますが、小学生の子どもたちにとっては、予習復習のできる授業より、予測困難な休み時間の友だちとの会話や関係に苦労している場面が多いようです。大人の考えるニーズと子どもの感じるニーズの両方を上手に満たしている、とても恵まれた環境を羨ましいと感じました。保護者の方も、このシステムを上手に使いこなしているという印象でした。

 佐世保市の難聴学級の先生は、難聴の専門家ではなく、難聴学級に配属されて初めて難聴に出会った方でした(よくある話ですよね)。この先生のすごいところは、ものすごく研究をされたことです。お話聞いていると、細かなところにまで先生の考えと配慮が行き届いていて、保護者は安心だろうな~と思いました。ロジャーをスピーカーのアンプと接続させるとか、校内放送にロジャーを接続させるとか、上手くいくこともいかないこともあるようですが、本当に試行錯誤されていて、私もまだまだやれることはいっぱいあるなと勉強になりました。

 最後に、これは全国的な問題なのかもしれませんが、特別支援学校や支援学級の教員配置の問題です。佐世保市の先生のように、熱意と専門知識と経験を持つ教員が同じ障がいに継続して関わることにより、その専門性を磨いていくのが理想ですが、なかなかそうはいかないという現実です。10年以上難聴児教育に携わりながらも、次の移動では難聴とは全く違う学校へ・・・という話を聞く度に、なぜだろう?障害児教育や教員育成、専門性について、県や国はどう考えているのだろう?と疑問を持たざるを得ないのですが、では、どうすれば変わっていくのか、やはり国でしょうかね・・・という神田先生の言葉が重かったです。

当事者が声を上げること、何も変わらないと諦めないこと、とにかくやってみること。長崎県の難聴児に関わる人々との交流を通して、多くの勉強をさせていただき、また明日からの元気をもらいました。本当にありがとうございました。